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本当は怖い話:遺失物000

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1. 渋谷の地下で

渋谷の副都心線ホームは、夜と朝のあいだに沈んでいた。深いところで響くのは電車のモーター音だけ。人の声はない。女子大生の真帆は、友人と朝まで飲んだ帰りだった。目は冴えているが、足元は少し怪しい。改札を抜けて降りていくと、ホームは不自然なほど静かで、ベンチには誰もいない。終電はとうに過ぎた。始発までは、あと少し。

電子掲示の時刻は「04:42」。ホームドアの向こうで、トンネルの空気がかすかに動いた。

2. 入線――回送のはずが

ライトの輪が近づく。短くブレーキ音、続くモーターの唸り。行先表示は「回送」。本来、扉は開かない。だが、真帆の前だけスーッとホームドアがスライドした。続いて車両側の扉も開く。酔いの勢いと安堵で、彼女は躊躇しない。乗れば帰れる。そう思って、最寄りの座席に腰を落とした。

車内はまるで新品のように清潔で、広告はどれも下地紙だけ。「上部に広告が入ります。」という薄いグレーの仮文字が紙の端に残る。真帆はスマホを確認した。電波は一本だけ立っては消える。メッセージの吹き出しに時計のアイコンが回り続ける。

「各駅に停まります」という自動放送が流れた。聞き慣れた抑揚なのに、単語の切れ目が不揃いで、どこか録音テストのままを再生しているようだ。ドアが閉まり、加速。VVVFの音が低い唸りから、甲高い音階へ滑っていく。

3. 床の水と一枚の札

最初のカーブで車体が小さく揺れ、彼女は足元の冷たさに気づいた。床に水滴が一筋、座席下から通路へ伸びている。渋谷の地下はしっとりしているが、車内の床に水が溜まるのはおかしい。水の筋をたどると、座席下に紙片が貼り付いていた。拾い上げると、硬い紙に黒いインクが滲んでいる。

渋谷駅 遺失物票
受付番号:000
品名:本体
特徴:酩酊、女性、黒髪、未回収
取り扱い:至急
担当印:□□

「本体?」真帆は笑った。誰かのいたずらだろう。札は薄く濡れているのに、印字は鮮明だ。彼女は学生証ケースで涼を取るように扇ぎ、紙片を膝に置いた。モーター音が低く揺れる。床の水は、少しずつ彼女のスニーカーへ広がってくる。

4. 取扱手順

「まもなく、明治神宮前。お忘れ物のないよう――」放送の語尾が、半拍遅れて二度鳴った。「よう、よう」。ドアが開く気配はない。ホームの照明が窓にすべり、すぐに闇へ戻る。停車したのかもわからない。誰かが天井の点検蓋を内側から軽く叩いたような音がした。コン、コン。真帆は身をすくめる。次の瞬間、車内のランプが一つ点いた。「非常通報受理」。赤いLEDが呼吸するように明滅する。

車掌室の扉が静かに開いて、誰かが乗ってきた。制服の袖口、白い手袋。顔は見えないのに、所作だけが完璧に整っている。その人物は座席の端から順に、病院の回診のように止まり、空気をビニール袋にそっと包み込む仕草をした。袋の口をねじり、封をする。何も入っていないはずなのに、袋は少しだけ膨らみ、重さを感じるようにぶら下がる。モーター音が低くなるタイミングで、その「重み」は少し増す。

三つ目の座席に至ったとき、人物はぴたりと止まった。真帆の正面。彼女の膝の上を、白い手袋が一瞬、撫でる。膝が、ふっと軽くなった。心臓が沈む。手袋は、そこに目に見えない何かをビニールに収め、遺失物票をサッと取り上げ、スタンプを落とした。

受付番号:000/処理:回収済

「ちょっと待って…」声が出ない。喉がからからだ。白い手袋は一礼し、車掌室に消えた。扉が閉まる。モーター音が再び高音に上がる。列車は何事もなかったように走る。

真帆は震える指で遺失物票を取り返そうとした。膝の上にあったはずの紙は消えていた。代わりに、見慣れたスマホケースがそこにある。自分のケースだ。角に小さな傷がある。同じ位置、同じ形。スマホを握る手は、裸のガラスの感触を伝えている。ケースは…いつ外した?

5. 彼女の番号

写真フォルダを開くと「0項目」。夜の記録がすべて失われた。動画も、通話履歴も、体温のように消えている。アプリの通知欄には「渋谷駅 遺失物係 よりお知らせ」。見覚えのないアイコン。タップすると、ただ白い画面に黒い数字だけが表示された。

引換番号:000/品名:本体/受領場所:渋谷駅 遺失物取扱所/取扱期限:本日中

電波はいつのまにか消えている。窓の外は、駅名標の白い光が遠心力の帯になって流れていく。「次は、新宿三丁目」放送の声が、微かに真帆の声色に寄っている。彼女は立ち上がり、ドアに近づいた。耳の奥でモーターが甲高く鳴る。VVVFが上がって、わずかに音が割れる。ドアの隙間に顔を近づけると、外から冷たく湿った空気が流れ込む。鉄と水の匂い。ホームドアの縁に、白いチョークで書かれた矢印が見えた。→。矢印の先は、線路の暗がり。

「ご乗車ありがとうございます。遺失物を回収いたしました」放送が告げる。自分のどこが、回収されたのか。心臓の鼓動はある、呼吸もある。でも、眠気がない。あれほど強かった酔いが、不自然に切れている。笑っていた自分の“声だけ”が、どこかの袋に入って持っていかれたように思えた。

6. 引換札

不意に、列車が渋谷へ戻ることを告げた。「折返します」アナウンスと同時に、座席の隙間から小さな紙片が首を出す。拾い上げると、細長いレシートのような紙に、見たことのない桁の数字が並んでいる。

000-000000-0000000/取扱:本体/引換場所:渋谷駅 遺失物取扱所カウンター/注意:身分を証明できない場合はお引き渡しできません

桁が多すぎる。紙の端は濡れている。滴が落ちるたび、モーター音の低音がわずかに強まる。気づけば、車内の広告の下地紙に、文字が浮かび始めていた。「お忘れ物“本体”のお引き取りは、本日中に」フォントは公式のものではない。スタンプのように、紙の裏からにじみ出ている。

渋谷に戻る。ホームドアが開く。今度は確かに、現実の渋谷のホームだ。人がいる。新聞のにおい、コーヒーの香り。それでも、足元の床だけは冷たく、濡れている。

真帆はふらつきながら階段を上がった。改札脇に、小さな窓口が口を開いている。「遺失物取扱所」プレートの文字は新しく、周囲よりも白く輝いて見える。

7. 渋谷遺失物係

窓口の中は薄暗く、棚が奥へ長く続いていた。札が打たれた透明袋が整然と並ぶ。傘、折り畳み財布、手袋、単片のイヤホン。その一角に、何も入っていないのに湿っている棚があった。ラベルには油性ペンでこう書いてある。

000 本体

呼び鈴を押す。応対した駅員は、眠気のない笑顔で「引換券を」と言った。紙を差し出すと、彼は目で桁を追い、頷いた。「身分証はお持ちですか」真帆は学生証ケースを取り出す。中身は空の透明スリーブだけ。写真が、ない。「写真が必要でして」声はやわらかい。だが、後ろの棚の一番上に、透明の袋が一つ滑り出てきた。袋の口はねじられ、白いタグが付いている。タグには「品名:本体」と印字。中には……何も見えない。何も見えないのに、袋の内側が白く曇り、呼気の形で丸く濡れた。

駅員は袋を手に取り、窓口に置いた。「こちらでお間違いありませんか」真帆は、頷くことも否定することもできない。袋の内側の曇りが、ふっと薄くなった。曇りに写ったのは、夜の居酒屋で笑っている自分の口元――だけ。声も、目も、頬もない。駅員は遺失物票をめくり、スタンプを押す。「引渡済」。

「もしお気持ちが変わりましたら、期限内にお戻しください」窓口の向こうで、棚に戻される袋。札の並ぶ列の一つが、ほんの僅かに濡れ、雫が落ちる。

改札に戻ると、朝の群れが始まっていた。真帆はホームへ降りる。電車が入ってくる。モーター音が立ち上がる。頬の裏側が、空洞のように冷たい。何かを置いてきた口の内側に、風が通る。

スマホが震えた。通知に「保存に失敗しました」。誰の写真も、彼女のスマホには残らない。シャッター音はするのに、フォルダはゼロ件のまま。

ホームを歩くうち、彼女は自分の足取りがやけに軽いことに気づいた。軽い。軽すぎる。体はここにあるのに、駅の図面から名前が剥がれ落ちた部品のように、どこにも「記録されていない」。発車標が一瞬、白光を放ち、数字が滲んだ。「000」。VVVFが短く逆相に跳ね、彼女の名前の響きだけが、遠いレールの底に落ちていく。

その日以来、渋谷の遺失物係の棚には、空の袋が一つ増えたという。札には、ただ「000 本体」とだけ。


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