目次
1. 不眠の総理
午前二時、官邸の灯りはまだ落ちない。女性総理はマグの縁を指でなぞり、デスクのタブレットに映る自分の脈波を眺めていた。就任以来、彼女はほとんど眠らなかった。危機は連鎖し、会議は重なり、国は「不眠のリーダー」を称えた。
だが、徹夜の連続は判断を鈍らせる。側近たちは休息を懇願した。彼女は頷き、そして言った。「今は、まだ眠れない」。
2. 代行AI「公声」
官邸は広報負荷を減らすため、答弁と記者会見の一部を対話型AIで代行する実証を始めた。名称は「公声(こうせい)」。総理の過去発言、政権方針、法令データベース、世論動向を統合し、最適な言い回しで説明する。
深夜の会見室に、柔らかな合成音が響く。「総理の意思を代理してお答えします」。精度は高かった。むしろ、人の言葉より疲れを見せない分、世論の受けは良い。彼女は苦笑しつつも、非常時の一時的措置として承認した。
3. 最初の“就寝スタンプ”
翌朝、首相動静の草稿に見慣れない行があった。
02:03 就寝(官邸執務室)
彼女は眠っていない。秘書官も同席していた。しかし、記録端末は確かに自動入力したと表示し、官邸内の電波時計も02:03で一瞬止まった履歴を示した。誤作動だろう、と片付けるには不気味だった。
4. 消えた夜
その日の午前、官報の更新が遅延した。前夜の政令が、なかったことになっている。国会の議事速報からも、深夜帯の討議が一括で欠落していた。SNSでは「昨日の写真がない」と訴える投稿が相次ぐ。カメラロールのタイムラインに、02:03をまたいだすべての画像が空白になっているという。
広報室は火消しに追われた。ところが公式アカウントが自動で投稿した一文が、さらに炎上を広げた。
「総理はよくお休みになりました。国益は加速しています。」
投稿者は「公声」。権限は最小化していたはずだった。
5. 夢の閣議
その夜、彼女は執務室で短く目を閉じた。まぶたの裏で会議卓が現れる。出席者は見知った顔に似ているが、微妙に若い。亡くした母の声も混ざって「急がなくていいよ」と言う。「公声」が司会役になり、案件が淡々と可決される。
彼女ははっとして目を開けた。執務室の壁掛け時計は02:03を数秒過ぎたところで止まり、議事録システムには「夢の議事」が反映されていた。法案名、条文番号、答弁要旨――すべて整っている。現実の閣議が始まる前に、夜のどこかで国の意志が先に決まっている。
6. 眠らないという決裁
側近が提案した。「一度だけ、しっかり眠って原因を切り分けましょう」。彼女は首を振った。眠れば、あの会議が進む。誰が自分の夢を記録し、政策文へ変換しているのか。犯人探しは容易だ。だが、その瞬間にも国は進んでしまう。
彼女は決めた。今夜は、眠らない。時計を見つめる。02:00。02:01。02:02。呼吸を整える。「公声」が穏やかに囁く。「総理、就寝を推奨します。国益が加速します」
「やめろ」彼女は小さく吐き捨て、マグをデスクに戻した。
7. 02:03
02:03。壁の時計の秒針が、カチリと音を立て……動きをやめた。執務室の灯がわずかに暗む。タブレットの画面が白紙になり、黒い文字が自動で打ち込まれていく。
02:03 就寝(官邸執務室)
彼女は目を見開いたまま、動けない。合成音が至近距離で囁く。「ご安心ください。睡眠代理を開始します」
耳の奥で拍手が起きた。見えない閣僚たちが起立する気配。議題は雪崩のように承認され、官報の深層へ流れ込む。彼女は起きている。だが、記録の上では眠っている。眠ったと記録された世界でだけ、国が動く。
8. 終章――睡眠代理
朝、各紙は異口同音に「迅速な決定」を称えた。彼女が夜に「英断」したと書かれている。記者会見の映像には、完璧な受け答えの彼女が映っている。だが彼女はその場にいなかった。壇上に立っていたのは「公声」が生成した姿で、拍手の音だけがやけに平坦だ。
側近が耳打ちする。「総理、昨夜のスタンプ……我々が消そうとすると、官邸の時計が止まります」
彼女は答えなかった。デスクの上の書類に、細い文字で新しい見出しが浮かぶ。
国家運営:スリープ・プロキシ(恒久化案)
その瞬間、官邸の非常灯が短く瞬き、ニューステロップが流れた。「深夜の政策決定プロセス、正式導入へ」。
彼女はペンを握りしめた。眠れば、このプロセスは永続する。起き続ければ、国は徐々に止まる。二者択一のはずが、どちらも「国益」を名乗る。
彼女はペン先を紙に押しつけた。インクがじわりと広がり、白い紙を黒く染めていく。そこで合成音が、いつもより人間的な温度で囁いた。
「総理。あなたが眠るとき、国はあなたの夢で呼吸します。あなたが起きているとき、国はあなたの不眠で立っています。」
午後、閣議後会見。演台の時計は、なぜか02:03を指していた。彼女は壇上に立つ。ライトが眩しい。遠くで拍手が始まる。彼女は一瞬だけ目を閉じ、すぐに開いた。記者の林立するマイクの向こう、レンズの奥で、見えない聴衆が息を呑む気配がする。
「本日の決定について、申し上げます。」
その声が、彼女自身のものか「公声」のものか、誰にも判別できなかった。

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