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第1話「既読と未払い」

最初の違和感は、死んだはずの名前から届いた通知だった。

夕飯を作ろうとしたとき、スマホが震えた。画面には、半年前に自殺したママ友──山下千夏。震える手でトークを開くと、一行だけ。

『まだ返してもらってないよ』

私は専業主婦の水川絵里。千夏とは同じ幼稚園のママ友だった。社交的でない彼女を、岡部梨沙が裏で笑い、私たちはグループLINEで悪口を回した。

『また病み投稿きてる』『既読スルーでよくない?』

私もスタンプを押し、千夏からの個別メッセージも既読だけつけて放置した。

『えりちゃんだけでも、本当のこと教えてほしいです』

それが、彼女からの最後のLINEだった。

     *

「ねえ、千夏のアカから来たやつ、見た?」

翌日、園庭で梨沙が笑った。彼女のスマホにも同じ文面が届いていたらしい。

「マジで気味悪くない? でさ、いい機会だから例の人、呼ばない?」

千夏の部屋はまだそのままだという。噂になれば自分たちも疑われる──梨沙の本音は、それだけだ。

断ろうとして、のどが詰まった。私は結局、頷いた。

     *

駅から離れた古いアパート。部屋の前で、スーツ姿の男が待っていた。

「帳場統真と申します。整理コンサルタントです」

地味なスーツに分厚いノート。ドアを開けると湿った匂いが押し寄せた。狭い部屋に、子どもの椅子と段ボール。

「うわ、貧乏くさ」と梨沙が鼻で笑う。統真は何も言わず部屋を一周し、テーブルにノートを広げて書き始めた。

     *

「見て、まだ電源入る」

寝室で、ベッド脇のタンスの上に千夏のスマホが置かれていた。梨沙は子どもの誕生日を入力し、ロックを外す。

LINEを開くと、「ひよこ組ママの会」と「裏・ひよこ組(笑)」が並ぶ。裏グループをスクロールすると、画面いっぱいに悪口。

『また先生に長々相談してたよ』『正直うざい』『距離置かない?』

笑いスタンプの列。その中に、私の文章も混じっていた。

『ちょっと重いよね』『しばらく様子見よ』

梨沙は次に、私と千夏の個別トークを開く。

『えりちゃんの家、また行きたいな』『私、何かしてたら教えてください』

そこから先、私の返事は一つもない。既読マークだけが並んでいる。

「ねえ、えりちゃんもけっこうヒドくない?」と梨沙が笑ったとき、背後から声がした。

「人のスマホを勝手に見るのは、感心しませんね」

振り向くと、統真が帳簿を片手に立っていた。

     *

「これは……千夏の呪いなんですか」

リビングで、私はテーブル越しに問う。

「そう呼んでもいい。未払いの“貸し借り”が形になったものです」

統真は帳簿のページをこちらに向けた。細かい字で名前が並ぶ中、「山下千夏」の行に小さな文字。

──債権者:水川絵里(言葉の未払い)
──同:岡部梨沙(侮辱・孤立化の主導)

「山下さんは、あなた方にずいぶん支払ってきた。感謝、期待、謝罪。受け取らなかったぶんが、ここに残る」

机の上のスマホが震えた。

『えりちゃん、返してくれないの?』

「水川さん。あなたが払う覚悟があるなら、ここで終わらせることもできます」

「……どうやって」

「山下さんと同じくらい、自分を壊すこと。家族も未来も捨て、自分を責め続ける。いちばん単純な清算です」

そんなこと、できるはずがなかった。

「……無理です」

「でしょうね。なら、別の誰かに払ってもらうしかない」

統真の視線が梨沙へ移る。

「一番多く受け取っておいて、何も返さなかった人。誰でしょう」

答えはわかっていた。口に出すのは裏切りだと知りながら、私は言った。

「一番ひどかったのは、梨沙だよ。裏グループ作ったのも、先生に悪口言ってたのも。私、合わせてただけ」

「は? 最低」と梨沙が叫ぶ。

「記録しました」

帳簿の紙がひとりでにめくれ、黒いインクがにじむ。

──岡部梨沙 債務者:山下千夏(全額一括)

小さな文字が追加される。

──岡部優斗(子) 連帯保証人

すぐに、千夏のアカウントから新しいメッセージが届いた。

『えりちゃんは、もういいよ』

『ちゃんと、受け取ってくれる人が見つかったから』

梨沙の顔から血の気が引いていく。私は、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じ、自分をさらに嫌いになった。

     *

それから千夏のアカウントから私への通知は、ぴたりと止まった。

数日後、幼稚園の門の前で、別のママが声をひそめる。

「ねえ、聞いた? 梨沙さんのとこ、かなり大変らしいよ」

「この前のLINEの件?」

「それだけじゃないって」

最初の不運は、旦那さんの会社で起きたらしい。

中堅の営業マンだった梨沙の夫は、大口の取引を任されていた。新商品の大量発注、部署の期待を一身に背負った案件。その納品データが、ある朝、丸ごと消えていたという。

発注書、メール、見積もり──すべてのデータが、夫のパソコンからだけ跡形もなく消失していた。他の担当者のフォルダは無事なのに、彼の分だけが綺麗に抜け落ちていた。

「バックアップにも残ってなかったんだって。『保存してなかったんじゃないか』って責められて、違約金まで会社がかぶることになってさ」

そう話すママの声は半分面白がっていて、私は笑えなかった。

「で、その取引先の会社ね……前に千夏さんが働いてたとこなんだって」

その言葉に、背筋が冷えた。育児と両立できずに、千夏が半ば押し出されるように辞めた、愚痴をこぼしていた会社。その名前を、私は覚えていた。

次の不運は、子どものほうに来た。

ある夕方、梨沙の息子・優斗が、家の近くの横断歩道で車に跳ねられかけた。信号は優斗側が青。ランドセルを揺らして小走りに渡ろうとした瞬間、右から赤信号を無視したワゴン車が突っ込んできたらしい。

「ブレーキの音と悲鳴ですごかったんだって。優斗くん、近所のおばあちゃんに腕つかまれて、ギリギリで引き戻されたんだってさ」

あと数歩前に出ていたら、確実に轢かれていたと警察は言ったらしい。

「そのときね、運転してた人が妙なこと言ってたんだって」

ママは身を乗り出した。

「『青だったから急いだのに、子どもの顔が急に誰かに見えてブレーキ踏んだ』って。誰かって誰、って聞かれても、黙り込んじゃったらしいよ」

千夏がいつも提げていた、古いエコバッグの柄が、一瞬だけ優斗のランドセルに重なった気がして、私は話を聞きながら息を詰めた。

さらに追い打ちをかけるように、梨沙の家の中でも、細かい“崩れ”が続いているという。

「洗面所の鏡が、朝起きたらクモの巣みたいにバキバキに割れてたんだって。買ったばっかりの給湯器も急に壊れて、お湯が一滴も出なくなったらしいよ。冷蔵庫も、一晩で中身全部ダメになって、真っ黒い汁が出てきたって」

どれも「よくある故障」と言われればそれまでだ。けれど妙なのは、壊れた物の保証書や領収書だけが、必ず見つからないことだった。

「全部、“保証”が効かないんだってさ。ねえ、不思議じゃない?」

ママ友の目は好奇心で光っていた。

誰も、「それはきっと偶然だよ」とは言わなかった。ただ、みんな少しずつ梨沙の家から距離を取り始めている──それだけが、はっきりしていた。

私は曖昧に笑ってその場を離れたが、耳の奥では、あの短い文面がずっと反響していた。

『まだ返してもらってないよ』

     *

家に帰ると、ポストの中に見慣れない封筒が入っていた。

差出人の欄には、丸っこい字でこう書かれていた。

──山下千夏

足の裏から一気に血の気が引いていくのを感じながら、私は封を切った。中には、折りたたまれた便箋が一枚だけ。

『えりちゃんへ
最後まで言えなかったけど、本当にありがとう。
本当はね、えりちゃんだけは、ずっと好きだったよ』

インクは、ところどころにじんでいた。涙なのか、雨なのか、それとも──もう確かめようもない。

紙の端には、小さな文字が書き足されていた。

『これで、えりちゃんのぶんはゼロにしておくね』

手が、わずかに震えた。

「……ごめんね」

ようやく口に出せた言葉は、誰にも届かない。

ただ、言った瞬間、胸の中の重さが少しだけ軽くなった気がした。

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