「会社の“整理”も、お願いできるんでしょうか」
そう電話口で言った総務課長の声は、明らかに「物の片づけ」だけを求めてはいなかった。
帳場統真は、黒いスーツの袖口を直しながら短く答えた。
「内容によりますが……一度、現場を見せていただけますか」
◆
ビルのフロアは、外観に似合わず暗かった。
中規模のシステム開発会社。都内によくある、どこにでもありそうなオフィス。
それでも、入口に立った瞬間、統真はうっすらと眉をひそめる。
空調の風に混じって、「使い古した謝罪」の匂いがした。
案内してきた総務課長・池田は、スーツの胸ポケットに丸めたハンカチをねじ込んでいる。
緊張で、すでに何度も汗を拭いたのだろう。
「もともと、離職率は高くなかったんです。でも、一年前から妙な噂が出てきましてね」
フロアを歩きながら、池田が声を潜めた。
「“田所のアカウントを使うと、呪われる”って」
「田所さん、ですか」
「ええ。うちの元社員です。ちょうど一年前に、自宅で……亡くなりまして」
オフィス中央、島状のデスクの一角。
そこだけ椅子が引かれたまま、空席になっている。
机の上は書類が片づけられているのに、その空白だけが、逆に目立っていた。
「遺族の方への配慮もあって、しばらくデスクもロッカーもそのままにしていたんですが……最近、こちらのプロジェクトチームで、立て続けに事故やトラブルが起きまして」
池田は声をさらに落とす。
「共通点が、“田所の共有フォルダにアクセスしていた”ってことなんです」
統真は、さりげなく胸元のネクタイピンに触れる。
古い和柄の金属片が、蛍光灯の光を鈍く返した。
「事故の内容を、簡単に教えていただけますか」
「一人はサーバーのバックアップデータを全部飛ばしかけた。もう一人は、階段から転げ落ちて骨折。それから……」
池田は一瞬、言いよどむ。
「新卒の女の子が、一度だけ田所のフォルダを開いたあと、精神的に不安定になりましてね。『あの人の声が聞こえる』なんて」
「その“新卒の女の子”というのは?」
「今も、このフロアにいます。三浦というんですが……」
池田の視線の先、モニターに顔を近づけている若い女性がいた。
やつれた顔をしているが、時折、周囲の視線を気にしているのがわかる。
統真は、左手に抱えた分厚い和綴じの帳簿を、わずかに持ち直した。
表向きは、現場の「整理コンサルタント」。
実際にここへ呼ばれた理由は、別にある。
◆
最初に案内されたのは、問題の「共有フォルダ」だった。
ガラス張りの会議室で、三浦も同席させられている。
「……本当に、見せなきゃダメですか」
小さく震える声で、三浦が言う。
彼女のモニターの端には、医師の病院名が印刷された診断書が伏せられていた。
「大丈夫です。開くのは、私がやります」
統真は、穏やかな声で制した。
席に座ると、三浦のPCに指先をすべらせる。
デスクトップには、仕事のフォルダの他に、一つだけ浮いた名前のアイコンがあった。
【TADOKORO_SHARE】
「このフォルダを開いた人間に、トラブルが起きている?」
「……はい。最初は、ただの噂だったんです。『開くと、深夜二時二十二分にエラー音が鳴る』とか……くだらないって笑ってたんですけど」
三浦はうつむいた。
「私、ほんの一度だけ、開いてしまって……」
統真は、無言でマウスをクリックした。
フォルダが開く。
中身は、ごく普通の業務データだった。
設計書。ログ。顧客とのやりとり。議事録。
そのどれもに、律儀に「作成者:TADOKORO」の名が残っている。
ただ一つだけ、浮いているファイルがあった。
【約束.txt】
統真は、画面から視線を外さずに、帳簿を膝の上で開いた。
右手首の焼け焦げのような痕が、スーツの袖から一瞬のぞく。
古びた万年筆が、紙の上に置かれた。
帳簿のページは、すでにうっすらと黒ずんでいる。
行間には、人間の「負債」が細かい字でびっしりと書き込まれていた。
――未払い残業 280時間
――肩代わりしたミス 4件
――謝られなかったこと 27回
――見なかったふりをされた視線 数え切れず
ページをめくるごとに、空気が重くなる。
統真は、誰にも聞こえないほどの小さな声でつぶやいた。
「……だいぶ、溜め込みましたね」
万年筆の先が、さらさらと紙の上を走る。
【田所 健二 (呪いの親候補)】
【三浦 結衣 (呪いの子候補)】
「帳場さん?」
池田が不安そうに覗き込む。
統真は帳簿をぱたんと閉じた。
「失礼しました。少し、整理していただけです」
画面に目を戻す。
そして、【約束.txt】を開いた。
中身は、拍子抜けするほど短いテキストだった。
『次こそ、ちゃんとみんなで飲みに行きましょう。
プロジェクトが落ち着いたらでいいので。
日程、また相談させてください。 田所』
「……これだけ、です」
三浦が呟いた。
「はい。たった、これだけ」
統真は言いながら、帳簿の別のページを親指で押さえる。
そこには、薄く、こう書かれていた。
――『約束』の未回収分
「三浦さんが、このファイルを開いたのはいつですか?」
「えっと……田所さんが亡くなってから数ヶ月後、フォルダを整理しろって言われて」
「その時、あなたは何を感じました?」
三浦は、少し考えてから答える。
「……読んだ瞬間、頭の中で誰かが『守ってくれなかったね』って言った気がして。怖くなって閉じて、それから、夜になると、椅子がきしむ音とか、誰かが後ろを通る感じがして……」
統真は、短く息を吐いた。
「わかりました。次は、田所さんのロッカーを見せてください」
◆
ロッカールームは、フロアの端の非常口の脇にあった。
田所の名前が貼られた扉には、ガムテープで「使用禁止」とだけ書かれた紙が貼ってある。
「鍵は、ありますか」
「ここに……ずっと開けていなかったんですが」
池田が震える手で鍵を差し込む。
ぎ、と鈍い音を立てて扉が開いた。
中には、コートと、古びた鞄と、靴が一足。
棚の奥に、社員旅行の集合写真がマグネットで貼られていた。
一ヶ所だけ、黒くマジックで塗りつぶされている。
写真の端、そこに立っていたであろう人物が、雑な黒塗りで消されている。
ロッカーの底には、しわくちゃになったメモが落ちていた。
統真は、しゃがんでそれを拾い上げる。
『すみません、今回の障害、うちのチームの責任にしてもらえますか?
代わりに、次の評価の時はちゃんとフォローしますから。
悪いようにはしません。 桑原』
「桑原、というのは?」
「この部署の部長です」
池田が答えた。
「田所と一番、付き合いが長かったはずですが……今は別のプロジェクトの指揮で、今日は外出中でして」
統真は、メモを帳簿の間に挟み込むようにして、そっと閉じた。
帳簿のページを開くと、すぐに新しい行が浮かび上がる。
――桑原 真治 / 責任転嫁 1件
――「悪いようにはしない」という空手形 1件
――評価でのフォロー 未履行
「……貸し借りの管理が、ひどく雑だ」
統真は自分だけに聞こえる声で呟いた。
「何か、わかりましたか?」
池田が身を乗り出す。
「ええ、大まかには」
統真は、普段より少しだけ冷たい目でロッカーの中を見渡した。
「この会社では、“田所さんのアカウント”が、便利な共有の財布にされていたようですね」
「さいふ?」
「ミスの責任を押しつける先として。匿名でログインして、都合の悪いログを消すための手として」
棚の内側には、無数の小さな引っかき傷がついていた。
指の骨で、金属を擦ったような、浅い傷。
それが扉の隙間に向かって、同じ方向に伸びている。
統真は、右手首の傷痕をさすりながら、淡々と言った。
「人はよく、“今回は仕方ない”と自分に言い聞かせて、借りを作ります。
一度だけ、二度だけ、とね。
でも、貸し借りは、いずれゼロに戻ります」
◆
その夜、統真は一人、消灯後のオフィスに戻ってきた。
池田には、「データのバックアップと物品の搬出のため」とだけ伝えてある。
フロアの灯りは落ち、非常灯だけが緑色に光っている。
田所のデスクに座り、PCの電源を入れる。
ログイン画面に、ユーザー名【TADOKORO】が表示される。
帳簿を机に広げ、小さな電卓を横に置く。
カチ、カチ、と音を立てて数字が打ち込まれていく。
表示されるのは金額ではなく、「命の時間」のおおよその目安だ。
「未払いの残業、肩代わりした責任、飲み会の約束、謝られなかったこと……」
統真は、足し合わせを眺めて、静かに目を細めた。
「ざっと、十年分といったところですね」
モニターの中で、田所の共有フォルダが開く。
【約束.txt】の更新日時が、今日の日付に変わる。
誰も触っていないのに、ファイルの中身に一文が増えていた。
『約束を守ってくれなかった人は、誰でしょう』
オフィスの空気が、ぴたりと止まる。
遠くのサーバールームから、ファンの回転音だけが聞こえる。
統真は、帳簿の新しいページを開いた。
ページの上部に、こう書き込む。
【呪いの親: 桑原 真治】
【呪いの子: 三浦 結衣】
万年筆の先を、一瞬だけ宙に浮かせたまま、思案する。
このままでは、「呪いの子」に負債が降りかかる。
田所が抱え続けた十年分の時間を、誰かが代わりに支払わなければならない。
統真は、すっと線を引き、文字を書き足した。
【負債の移し替え先:
桑原 真治の『これから十年の平穏な日常』】
「どちらかが払う。それだけの話です」
そう呟くと、帳簿の紙が、じわりと赤黒く滲んだ。
蛍光灯が一瞬だけ明滅する。
フロアの奥で、誰もいないはずの椅子が、ぎい、と静かに揺れた。
PCの画面には、システムの警告ウィンドウが次々と現れる。
【外部デバイスが接続されました】
【バックアップ先:不明】
統真は、それらを見ても顔色一つ変えなかった。
「田所さん」
モニターに向かって、誰にも聞こえない声で呼びかける。
「あなたに代わって支払う人間を、一人だけ用意しました。
彼はあなたとの約束を、最初に破った人間です」
画面の中の【約束.txt】が、ひとりでに上書き保存される。
更新時刻が、「2:22」にぴたりと揃った。
◆
翌日、オフィスの空気は露骨に変わっていた。
「昨日の夜から、何も起きてないです」
三浦は、まだ不安そうではあるが、目の下のクマが少し薄くなっていた。
「椅子の音もしないし、夢も見ませんでした」
「そうですか。それは良かった」
統真は頷いた。
「共有フォルダの方ですが、田所さんのデータは必要なものだけ社内サーバーに移して、アカウントは削除しました。ロッカーの荷物も、遺族の方にお返しします」
池田が言う。
「これで、ひとまず“整理”は完了、ということでしょうか」
「ええ。当面は、静かになると思いますよ」
統真は、黒いスーツの袖を整えながら答えた。
「ただし」
彼は会議室のガラス越しに、フロアを眺める。
誰も座っていない田所の元の席に、朝日が差し込んでいる。
「これからは、“誰かの名前を、都合よく共有しない”ことです。
フォルダでも、アカウントでも、責任でも」
池田は、どきりとしたように姿勢を正した。
エレベーターに向かう途中、統真のスマホが震える。
画面には、見慣れない番号からの着信履歴と、短い留守電通知。
『あの、桑原です……三浦の件で一度、お話を……いや、やっぱりいいです。またかけます』
途中で切れた声。
統真は、再生を止め、何もなかったように削除した。
◆
その日の夕方。
別の場所で、一人の男が病院の廊下に座り込んでいた。
顔を両手で覆い、ただうなだれている。
「父親の運転する車に、急に飛び出してきたみたいで……」
医師の声が、遠くで誰かに説明している。
「幸い命に別状はありませんが、しばらくは入院が必要ですね」
病室の中、まだ意識の戻らない少女の枕元に、ノートPCが置かれていた。
父親が仕事を持ち込むために持ち込んだものだ。
ノートPCのディスプレイには、会社のVPNを通じて接続された見慣れないフォルダが一つ。
【TADOKORO_SHARE】
少女は、薄く目を開けた。
瞳だけを動かして、そこに映るフォルダを見つめる。
麻酔の残る指先が、かすかに動いた。
タッチパッドの上で、カーソルがふらふらと揺れる。
ダブルクリック。
フォルダの中には、一つのテキストファイル。
【約束.txt】
モニターの前に誰もいない病室で、ファイルが静かに開かれる。
『次こそ、ちゃんとみんなで飲みに行きましょう。
……約束を守ってくれなかった人は、誰でしょう』
少女の目尻から、一筋の涙が滑り落ちた。
それが痛みのせいか、別の何かのせいかは、まだ誰にもわからない。
◆
帰りの電車の中で、統真は帳簿を開いた。
最初のページ。
そこには、消せない赤い名前が刻まれている。
かつて、自分が「自分のために」帳簿を使った、その時にすべてを背負わされた少女の名前。
その文字の横に、いつの間にか細い線が一本、増えていた。
新たな清算の痕。
最後のページの端には、薄く「帳場 統真」という文字が滲んでいる。
そこもまた、ほんのわずかに濃くなっていた。
帳簿を閉じると、電車が大きく揺れた。
吊り革が一斉にきしむ音が、耳の奥に刺さる。
統真は目を閉じ、右手首の焼け焦げの痕を、無意識に押さえた。
帳簿の中では、誰にも見えないところで、まだ清算されていない「約束」たちが、静かにページを重くしていた。

コメント